その6:大川小:大惨事を残さない、記録しない石巻市
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宮城県石巻市立大川小学校には10年過ぎた今も供養塔に花束が備えられ、ここの悲劇を無言で伝えている。しかし、全校児童108人のうち74人が死亡したというこの惨事を文字で伝えるものは今もない。
学校管理下での戦後最悪の事例、最高裁で遺族側の勝利確定など、これまで多くの報道がされてきた現場である。
当時の写真とともにある学校内の公式説明文には
「震災前の釜谷地区は141世帯の集落。商店、診療所、郵便局等があった大川の中心地。
北側の川幅は約550m、河口までの郷里は3.8km。地震発生は14時46分、震度6の揺れが3分以上続きました。海岸にあった10万本の松が流れ着き、橋に張り付いて津波をせき止めました。15時37分、そこからあふれた高さ約10mの津波が学校に到達しました」とのみ記されている。
学校に最も近い高台は裏山だった。「低学年でも十分登れる。5分あれば、全員避難できたはずだ」と遺族はいう。その避難場所の高台はコンクリートで整備されている。しかし、児童は川に近い「三角地帯」に移動させられ、津波の濁流に飲み込まれた。
「山さ逃げたほうがいいんじゃね」「早くしないと津波に来るよ」。近くにいた6年生は担任に訴えていた。(河北新聞「石巻・大川小 証言でたどる51分間」)
また、一度山に逃げたクラスの生徒たちが「降りてこい」と言われ、校庭に戻ったという話もある。
無事が確認されたのは31人。21人は遺体で見つかり、56人は安否が分かっていない。(当時)。教職員11人で助かったのは男性教諭1人だけ。校長(57)は午後から年休で不在だった。
学校と市教育委員は裏山に避難しなかつた理由を「現場にいた教師が『山に倒木があったように見えた』と話している』と説明している」。(河北新報)
また、「市教委は、児童の証言や当時生き残った男性教師の証言を記したメモも報告書作成後に全て破棄した。検証も難しくなっている」。(河北新聞)
参考:「大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻」:
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_okawa.html
リチャード・ハリー著 「津波の霊たち 3.11死と生の物語」
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